「何で分からないんだ?」
口元を押さえたまま呟く男性を目の前にして、私は息を詰めてしまう。
男性が嘘をついているのではないかという考えは、次第に青ざめてきている表情を見ていた私には浮かんでこなかった。
「名前以外のことは分かりますか?
たとえば年齢とか。」
「名前以外、ですか?
・・・・、何も浮かんでこないです。」
「じゃ、どうして私の家の前で倒れていたのかは分かりますか?」
「・・・・、駄目だ、何も思い出せない。」
「そんな。」

どうしよう、記憶喪失だなんて。
こんなこと本の中の出来事だと思っていたのに。

信じられない現状に驚くしかない私だったけれど、男性の呆然としながら辛さをにじませた表情を見ていると、自然に身体が動き出し、気がつけば肩を優しくさすっていた。
「病院に行ってみませんか?
調べてもらえれば何か分かるかもしれないし。
そうしましょう?」
私はそう声をかけることしかできなかった。
そして、
「そう、ですね・・・。」
男性は私の方を振り向き、何とか作り出した笑顔で返事をした。












「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
病院から帰ってきた私達は、家に戻ってきた。
そして、温かいお茶を用意した私は、テーブルの上に置き飲むように促す。
病院に行った結果は、記憶喪失だということに診断がついただけだった。
全生活史健忘。
怪我をしているところはないから、心因性のものだろうとお医者さんは言っていた。
分かったことはそれだけ。
いつ記憶が戻るのかは分からないと言われた。
記憶がないこと以外に異常はないということで、帰ってよいと言われた私達は家に戻るしかなかった。
病院に行けば何とかなるかもしれないと思っていたのは甘い考えだったということだったと言えるだろう。

これからどうしたらいいんだろう。

そんな考えが私の中に生まれてくる。
「いろいろご迷惑おかけしました。
記憶喪失だということがはっきり分かっただけでも病院に行ってよかったです。
ありがとうございました。
こんな状態なのでいつお礼ができるか分からないけれど、必ずお礼をしたいと思います。
じゃ、お弁当とお茶、おいしかったです。」
「えっ!ちょっと待って!」
男性は私に頭を下げた後立ち上がり立ち去ろうとするのを私は呼び止めた。
私の呼びかけに男性は足を止め、私の方を振り向く。
「何も思い出していないのにどこに行くの?
行く場所ないんですよね。」
「・・・・、行く場所はないですね、記憶ないですから。
でも、このままここにいるわけにもいきませんから。」
「行く場所がないんだったらここにいていいですよ。」
「これ以上あなたにお世話になるわけにはいきません。」
堂々巡りな会話を繰り返す私達。
そんなことを思いながらも、別の考えも浮かんでくる。

私はなぜこんな必死になって止めているのだろう。
このまま男性が言うようにこの場を立ち去ってもらった方が面倒なことに巻き込まれることはないのは分かっているはずなのに。
それでも引き留めてしまうのは、男性の笑顔を見てしまったせいかもしれない。
あの笑顔を見てしまった時から私は、この人に心が引かれてしまっているということを自覚する。
このまま彼に逢うことができないのは嫌だ。
それが今の私の正直な気持ち。
だったら、私は自分の素直な気持ちのまま行動をしたい。

「私はこのままいてもらっても困りません。
それに、両親も亡くなって1人で居酒屋をやっているんです。
仕入とかに人手が欲しかったところだから手伝ってもらえると助かります。
だから、このままここにいてもらえる方が・・・。」
私は自分で言いながら説得力がないことを言っていることに気づいて言葉を止めてしまう。
そんな私を男性はじっと見つめた後、表情を緩め笑顔になりながら話しだす。
「あなた1人しかいないところに男の僕がいるのは危険なことですよ。
それなのにあなたは僕がここにいやすいように言ってくれる。
優しい人ですねあなたは。
このまま甘えてしまいそうだ。」
「甘えてください。
困った時はお互い様という言葉もあるんですから。」
私は男性の言葉にすぐ反応し、返事をする。
思わず両手に握り拳を作ってしまうほど力みながら。
「ここまで言ってもらえるなんて僕は運がいいですね。
あなたの言葉に甘えたいと思います。
僕に出来ることはなんでも言ってください。
お世話になるだけでは申し訳ないですから。」
「はい。」
私が心引かれた笑顔でそういう男性に私も笑顔になりながら返事をする。
そうして私達の生活が始まった。






それからの私達は、協力しながら生活をしていった。
仕入れは任せて、お店は私が頑張るといったように。
そんな毎日を過ごす間に変わったことがあった。
男性の記憶が戻ったわけではなく、私達の関係が変わっていった。
私は男性に最初から心惹かれていたわけだけれど、男性も私を想ってくれた。
そんな私達はどちらからともなく自然に男女の関係を築いていくことになる。



「アキラさん、休憩しましょう。」
「そうだね。」
私達は夜の準備が終わり、休憩をすることにした。
そして、出会ってから季節は春から秋の終わりに変わっていて、私達はそんな季節の変化を感じながら散歩に出かけた。
アキラさん、記憶が戻らない男性に私は名前を提案した。
大好きだった祖父の名前を。
その名前を気にいってくれて私が名前を呼ぶと、私が好きな笑顔で返事をしてくれる。
散歩をしながらゆっくりと歩く時間、そんな時間は1人では感じることが出来なかった穏やかな時間。
アキラさんが私にくれたものは、今の私には無くすことが出来ないもの。
いつまでもこの時が続くことが私の幸せ。
「そろそろ風が冷たくなってきてるね。」
「そうね、でも昼間は暖かいからこうやって散歩をするのも楽しいわね。」
「そうだな、ひなたと一緒にこうやって過ごすのは気持ちが穏やかになるよ。」
「私もアキラさんとこうやっていると穏やかな気持ちになれるわ。
私達一緒にいるから感じ方や考え方が似てきてるのかもしれないわね。」
私はそう言ってアキラさんの腕に自分の腕を絡ませ身体を寄り添わせる。
そんな私にアキラさんは微笑みかけてくれる。

そう、このことを聞いてもアキラさんが私と同じ気持ちになってくれるといいけれど。

アキラさんに話さなければいけないことを心に秘めたまま私はアキラさんとの散歩を続けた。
しばらくして散歩から帰った私達。
アキラさんを膝枕しながら私は柔らかく触り心地のいいアキラさんの髪を撫でる。
「アキラさんの髪って柔らかいわよね。
触りたくなる髪って感じがする。」
「それはよかった。
この髪のお陰でひなたに膝枕をしてもらえるんだからな。」
目を伏せたままアキラさんはそう呟く。
2人の間に流れる穏やかな時、今なら言えそうな気がする。
「アキラさん、聞いてほしいことがあるの。」
「何?」
私は深呼吸をした後、
「妊娠したの、私。」
そう告白した。
アキラさんが私の告白にどう反応するのか分からない私は、目を閉じたままアキラさんの反応を待つ。
そして、膝の上からアキラさんの重みが消えたかと思うと、私はアキラさんの腕に包まれていた。
「いつ気がついたの?」
優しいアキラさんの問いかけに私は口を開く。
「最近身体の調子がおかしいことに気づいて、もしかしたらと思って自分で検査してみたの。
そしたら陽性って結果が出て。」
「そうだったのか。
気がつかなかったよ。」
「アキラさん、困るわよね。」
「なぜ?」
「だって、私達結婚しているわけじゃないし。」
「それは、俺に記憶がなくて戸籍がはっきりしないからだよ。
俺はひなたと書類の関係ではなく、気持ちで夫婦のつもりだ。
だから、俺達の子供がひなたのお腹の中にいるのはうれしいよ。」
「本当に?」
「本当だよ。
ひなたはうれしくない?」
「うれしい。
アキラさんとの子供が出来たことを知った時はうれしかったの。
でも、アキラさんが私と同じ気持ちでいてくれるか不安だったの。」
「そうか、辛い想いをさせたね。
僕はこれからもお腹の子と一緒にひなたといたい。
だから、こんなにうれしいことはないよ。」
「アキラさん。」
私はアキラさんの言葉に涙が溢れて止まらなかった。
不安になっていた自分の気持ちが流されるように。
そんな私をアキラさんは優しい腕で包みこんでくれた。












「寒い。」
いつの間にか洸のそばで眠っていた私は、冷えた身体の寒さで目が覚めた。
久しぶりに見たアキラさんの夢は、幸せな時を過ごしていた記憶だから目が覚めた時に涙が出そうになる。
でも、いくら眠っているからとはいえ洸の前で涙を見せるわけにはいかない。
私は、流れそうになった涙を堪えながら敷いてある布団に身体を潜り込ませ、再びアキラさんの夢が見られますようにと願いながら眠りについた。





Copyright(c) 2008 machi all rights reserved.

面白かったよとちょっとでも思ってくれたら押してもらえるとうれしいです♪
よろしかったら感想も一緒に書いてもらえるとますますうれしいです♪

Novel

Top

Next

Back




検索サイトから来られた方は、 こちら からTOPへどうぞ。